sayuki

スポーツ「主にバスケの話です。」少しずつ更新していきます。

❶人生を変えた最高で最悪な転機〜選手生命を失った日〜

初めまして!

札幌でバスケの活動をコツコツと勉強しながら行っています。

咲幸(サユキ)と申します🐨

これからバスケブログと言うスポーツのお話をねりながら実話を書いていきたいと思っております!

よろしくお願いします☺️

 

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私は高校1年生で6年間続けたバスケをやめた。

6年間…ずっと走り続けました。

誰よりもバスケが好きで、誰よりもチームの為に走ることが大好きでした。

 

辞めたこと。ある人から見れば「逃げ」。

また、ある人からすれば「守り」。なのかもしれない。

 

これは私が経験した実話です。

読んでくださっている方で怪我をした事ある方はどのくらい居るのでしょうか。

怪我をしたことがある人、ない人。

スポーツをしてる人、してない人。

色んな方がいるかと思います。

スポーツには、スランプ・怪我・挫折。

色んなものがついてきます。

読んでいる方で躓いたり、迷ったり、辞めたいと思ってる方がいましたら…

まだ諦めないで欲しいです。

大怪我をした人もいるでしょう。

意識が高いスランプに陥ってる人もいると思います。

このブログはそんな方の選択をじっくり考えれる「きっかけ」になれればと友人と話し書くことにしました。

筋トレ・フリータイムでも読んでいただけると幸いです。

この話を書くことになったきっかけは、恩師の一言からでした。

「君なら、きっとできるよ」。

 

私はもう選手には戻れません。

選手生命を失ったあの日。

 

今回お話するのは怪我した時。(当時中学3年生)

ブログ更新した際、話す時代が前後致します。ご了承ください。

 

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雪は少しずつ溶けていたものの、その日は寒い日でした。

中学校生活最後のイベント…クラス対抗球技大会!!

私はバスケ部に所属していて、「所属部活の球技に出てはいけない。」というルールが無かった為、躊躇することなくバスケを選び1試合目は大きな点差をつけて勝ち、本日2試合目の2コーター目の真っ最中だった。

相手の中にバスケ経験者が居なかったが、背が大きい人が居るため少し苦戦してたが点数は勝っていた。

同じクラスにバスケ部の6番(私のバスケ部の6番はガード。司令塔であり、ゲームキャプテン。)からパスを貰い、目の前にはディフェンスが居なかった為、レイアップシュートを狙っていた。

ドリブルをし1歩、また1歩。

徐々にゴールに近づく。

ゴールまで約4歩。いけるっ。そう私は確信していた。

そう思ってドリブルをしていた…次の瞬間。誰かと接触した。

この時はファールをもらえる。ラッキー!くらいにしか思っていませんでした。

 

私の視界は右に傾き始めた。…何か…変。

 

耳元で大きな音が鳴る。「ブチッン!!」

 

何が何だか分からなかったが目線が自然と右脚へ。

「右膝」は右側外を向き。「つま先」はそっぽを向くように真逆の左側へ。

 

痛いっ!っと痛みを感じたと同時に私は気絶した。

 

後で聞いた話なのですが、顧問の先生がいち早く怪我に気づき駆け寄ってきてくれたそうです。

私は目が覚めたと同時に激痛で叫びました。

右脚が熱をもち、心臓が右脚にあるかのように脈を打っていて、脈と同時に激痛が走ります。

 

素早く体育館から1階ホールに運ばれました。

周りにはクラスメイト数人が私を囲って見守ってくれてました。私の顧問の先生はみんなを体育館に戻るように優しく誘導して行きました。

 

それと入れ違いに女子バレーボール部顧問であり私の担任の先生が来ました。

先生は私の脚を見て、「切れてるかも。靭帯…」そう言って直ぐに私の母に電話して、病院に行くように伝えました。

 

 

母が車を出して、病院に着きすぐにMRI検査をしました。

MRIが1時間ほどかかり私はその間、ずっと「捻挫であって。お願いします。」そう願うことしか出来ませんでした。

検査が終わり、待合室で名前が呼ばれました。

母が車椅子を押し、一緒に診察室に入りました。

担当の先生はボーイッシュな女性の先生でした。

先生は嫌なほど分かりやすくレントゲンを指しながら私と母に細かく難しい言葉で説明しました。

 

「咲幸ちゃん。分かりやすく率直に言います。あなたの怪我は、前十字靭帯断裂・半月板損傷です。手術・リハビリの為、1〜2ヶ月の入院になります。手術をすればまたスポーツは出来ます。ですが、これまで通りに走れません。どれだけリハビリや筋肉を付けても、今までの5〜6割の力しか出ません。損傷が激しく、太ももから筋を取り切れた靭帯の所に移植します。膝の皿はボルトで固定をして経過を見ます。

卒業式の次の日から入院となります。

お母さん、入院の手続きは……………」。

 

 

 

車椅子と松葉杖を借り、車に乗せ母は車を走らせました。

「大怪我しちゃったもんだねー😅」っと母は明るく話しかけてくれました。

このまま早退してもいいんだよ?っと言われたのですが、給食が食べたかったし、何より最後の中学校行事を見たかったので学校に戻ることにしました。

 

学校に着き、インターホンで1人でクラスに戻れない事を伝えると、直ぐに担任の先生とクラスメイトが迎えてくれました。

3年生のクラスは2階。

学校にはエレベーターなどなかったので、痛みを我慢しながら階段を片脚で上り、2階から車椅子に乗り換えクラスに戻りました。

 

クラスのみんなは私が戻ると直ぐに集まり、大丈夫なのか?怪我の具合はどうなのか?っと質問責めにあいました笑。

同じクラスで、部活も同じの6番の子は泣いてました。

何故泣いているのかを聞くと、私が怪我したのを目の当たりにし、これからこなす試合が不安になっていた所、給食時間になって私が戻ってきたと思ったら車椅子になっていたことにビックリしたことで泣いていました。

この時は、もう一緒にバスケが出来なくなると彼女も私も思っていなかったと思います。

私はその時、不思議と泣きませんでした。大丈夫だよ!っと心配させたくなくて、ぐっと堪えていました。

みんなより少し低い車椅子は、とても食べにくい位置になっており、痛み止めを飲んでいても痛みが少しも良くなることなく、初めてその日給食を残しました。

 

給食の時間が終わり、車椅子の操作で汗ばんだ手を洗いに、友達に水飲み場まで押して行って貰いました。

そこには偶然私を担いでくれた顧問の先生がいました。

先生はビックリしたのもつかの間、私の脚と車椅子の姿を見てショックを受けてました。

先生は「痛いかい?怪我はどのくらい酷い?」

私は病院の先生の言ってたことを思い出し、先生に説明しました。

そこで、私も自分の口で説明することで自分の怪我の重大さに気づきました。

私は我慢していた涙が溢れました。

瞬きをする度に流れました。

悔しさ。虚しさ。そして何にも八つ当たりをすることも出来ない無力さ。

顧問の先生は優しく「我慢しなくていい。ゆっくり治そう。君ならできるよ。誰よりも努力してきたことを知ってるから。」

そう言って優しく肩をたたいてくれました。

 

 

この当時の女子バスケットボール部は上下関係が少し厳しかったのですが、こんな先輩を慕ってくれる、めんこい後輩が沢山居ました。

その中でもKと言う後輩は私を1番慕ってくれ、私も1番可愛がっていました。

もちろん、引退した先輩が車椅子姿になっていたらビックリするでしょう。笑

あっという間に後輩に囲まれ、「どうしたんですか?!なんで…大丈夫ですか?!」

笑いながら「大丈夫大丈夫!死ぬわけでないしさっ笑!」っと冗談を言ったりしてみんなを安心させようとしました。

いつも見る顔が一つだけありません。

周りを見渡すと、1番可愛がっていたKが泣いていました。

どうしたの?!っと聞くと…「咲幸先輩…もうバスケ出来ないんでしょうか…?」その言葉にドキッとしたのを覚えています。

 

昼休み終了のチャイムがなり、後輩はクラスに戻り、私は球技大会の続きを行う体育館に戻りました。

この1日が人生で1番時間が長く感じた日でした。

 

 

 

高校入学を控えてた私は中学3年生の夏から高校生に混じって練習をさせてもらっていました。

その日に高校のバスケ部の先生に連絡をすると、「とても残念。早く怪我を治して部活に顔を出して欲しい。」そう言われました。

 

バスケ部の男子からは「またバスケ出来るよな?お前なら大丈夫だ!」っと頼もしい言葉を投げてもらい、同期の女子バスケ部には「咲幸が1番走るのも好きだったのに…なんで。」っと自分の事のように悲しがってくれる仲間もいました。

 

 

私も人間です。

なので接触してきた人を初めは憎かったです。

どうして私なのか。

なんで私の右脚がそうならないといけないのか。ずっと…ずっと苦しみました。

 

でも、自分の事のように泣いて悲しがるチームメイトを見て私は思いました。

チームメイトの誰かが怪我しなくてよかった。

自分でよかったのかもな。

これからが期待の後輩がこんな辛い怪我をしなくて本当によかった。そう思えました。

 

今後のブログでもお話しますが、私は生涯スポーツを禁止され、ドクターストップを解除されないままになります。

1度は復帰するも、そこで決定的なドクターストップとなります。

今はジョギングや水泳は許可されました。

ですが、対人運動や膝に負荷がかかるスポーツは一切禁止。

バスケやバレー。野球にテニス。サッカーはもってのほかとなります。

 

こうして私は大好きな『バスケットボール』を人生から奪われました。

ですが…選手は無理でも他の形でバスケに携わる道を色んな人が、恩師が教えてくれました。

 

まだ私は諦めたくなかったんです。

怪我が無ければ高校バスケをして、大学でもバスケをし、バスケに携わる仕事に就くことを普通のように夢見てました。

 

当時中学生の私には怪我をしたことで普通に見てた「将来の夢」が取り上げられることがどれだけ残酷だったのか。

でも、諦めなかったから今の私がいます!!

走れないバスケコーチ。

かっこ悪いんですが、あらがって色んな方に支えてもらいここまで来ました。

読んでくださった皆さんは

これからだと思います。

 

22歳のガキが何を言うか。

本当にすみません。

でも、諦めなければ好きなことに食らいつくことが出来ることを、残酷な日を乗り越えれることを知って欲しいと思っています。

 

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

次のブログ更新は1ヶ月以内に更新します。

それまで、またしばらくお待ちください。

ここまでお付き合い頂きありがとうございました。

 

次のブログもよろしくお願いします🐨