❸現役復帰・体罰・自分で選択した終わらせた選手生命
こんばんわ!
初めましての方もいるかと思います。
札幌でバスケの活動と勉強をコツコツと行っております。
咲幸(サユキ)と申します🐨
前回の①に続き②も100人を超える人に閲覧して頂けました!!
本当にありがとうございます。
コロナでチームに所属出来ず、思うように活動出来ない中、沢山の方に励ましの言葉を頂けました。
皆様の期待に応えれるよう、自粛明け直ぐにバスケの活動報告をブログ以外のことで出来るように努力して参りますので、引き続き応援をよろしくお願いします!
今回も実話を書かせていただきますが、体罰についての話が出てきます。
読者の方の中には同じ体験、またはもっと酷いことをされた方もいると思います。
もし、読み続けていって「嫌な気持ち」になってしまったら、申し訳ございません。
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手術の経過は順調ではありましたが、痛みは完全に取れることはありませんでした。
そんな中、札幌の中心地にある私立の高校に入学しました。
そこに入学を決めた理由が2つあります。
1つ目は、高校の女子バスケ部の先生は女性で私のやりたいバスケプレーが似ていたのもあり、中学三年生の引退後すぐに高校生に混ぜてもらい練習に入学半年前から部活に行っていました。
もう1つの理由は、「キャプテンになって両親にバスケで恩返しをしたい」その夢は怪我をしてからも持ち続けました。
ですが私が入学するタイミングで、女性指導者の方が退職してしまいました。
代わりに副コーチの方が新監督になりました。ここから私の地獄が始まりました。
夏前にはボールを使って走れるまでに回復し、可動域制限はあるものの部活許可を貰えました。
私の代は自分を入れて6人で、私が全員声をかけて入部してくれた優しい人達です。
(この中に親友が2人出来ました。)
部活復帰したものの練習は日に日にハードになっていきました
1年生のメニューは主に足の強化がメインとされました。
『校内100周』『シャトルラン(自身の限界まで)』『ウェイトトレーニング』『縄跳び1000回』
1年生の時はこれが当たり前だと思い、ほぼ毎日こなして行きました。
1日も欠かさず朝練もしていました。
バスケができることが幸せすぎて狂ったようにボールに触れていました笑。
3年生が引退してから2年生がメインになると、厳しさは増していきました。
私の代は2年生の先輩と仲が良く、それを監督は試合に負ける要因だと言いました。
私は先輩が怒られるのが理解できなく、練習にも1年生の時は力をより入れるようになりました。先輩が怒られることがないように。
ですが、その行動は監督をヒートアップさせる事になりました。
ある時を境に、私ともう1人の部員が異様に怒られるようになりました。
ある日の練習で、ボールから程遠いところに居た私に監督は、『なんでお前がボール触ってるんだ!』っと怒鳴りつけられました。
これには先輩も私も理解が出来なく、私は『触っていません。』と反論してしまいました。
一瞬でした。監督が投げたパイプ椅子が宙に舞って、私目掛けて投げていました。
硬直した私の体はかわすことは出来ませんでした。
椅子は左頭をかすめて、肩に当たりました。
痛いが、我慢しないと怒られてしまうと思いぐっと堪えました。
監督は私に『本当は痛くない足を庇って練習を怠けるやつは要らない。ずっと病院で入院してたらいい。チームに使えないやつは校内走ってろ!!』そう言ってつまみ出されました。
私は自分が悪い。そう思い悔しく泣きながら練習が終わるまで走り続けました。
これだけでは終わりませんでした。
ある時の練習試合で威圧的な罵声を試合中ずっと言われ続け過呼吸になってしまった時、男子バスケ部の先生の適切な対応をしてくれ、何とか息の仕方を整えれそうな時、監督は私に『おい、早くしろ。試合出るんだぞ、待たせるな』そう言ってその後3試合を行いました。
無事に終わったものの、私のバスケは数合わせみたいな使い方をされて行きました。
言わば、【消化するだけのプレイヤー】でした。
そして、辞めるきっかけは突然でした。
ある日、教官室に呼ばれると1年生と2年生のメニューは別の日らしく、1年生のメニューを言い渡されました。
退室しようとすると、止められ質問されました。
『お前はなんでこの部活に入ったんだ?』
私は最初に言いました、2つの理由を答えました。
すると監督は鼻で笑い続けて言いました。
『お前はキャプテンになれないよ?だってキャプテンはB(今親友になっているバスケ部員)に決まってるから。残念だ!』そう言ってニヤニヤと笑う監督の顔を今でも思い出します。
その時、私は、もう、この人のバスケで得れるものはない。お父さん、お母さんごめんなさい。と思いました。
そして、『部活を辞めます。』と言いました。
何だかんだ止められましたが、私はその言葉を気にせず退室しました。
聞いたメニューを部員に伝え、帰ることは伝えずクラスに戻りました。
その途中で体育科の担任の先生に呼び止められました。
辞めると言った時、同じ部屋にいた先生は私の肩を叩いて『お前はよく頑張ったな。本当に頑張ってたな。偉かったぞ。』その言葉で私は改めてバスケ部を自分の意思で辞めたんだと自覚しました。
その日以来、私は体育館で部活をやることはありませんでした。
その後、定期検診で病院に行くと膝の皿が疲労でヒビが入っており、靭帯も少し伸びていました。
2度目のドクターストップを宣告。
偶然なのか、必然なのか定かではありませんがこの日をもってバスケ選手人生が終わりました。
怪我の経過はスムーズで、スポーツをしない分治りは良好なものの、今でも2分以上正座やしゃがむ動作は厳しいです。
この時とは私は好きなものが遂になくなり、楽しくない日々を過ごします。
ですが数年後にまたバスケに携われるとは思ってみなかったと思います…🏀💭
今回はここまでです!
少し長くなりましたが、最後まで読んでいただき、ありがとうございます😭
次回は少し昔の話に戻りたいと思います!
私の基礎が身についた『ミニバス』こと、ミニバスケットボール少年団のお話です!
次回も是非、読んで頂けると幸いです!
次回も、よろしくお願いします🐨
❷卒業と入院、人生初の手術へ。
こんばんわ!
初めましての方もいるかと思います。
札幌でバスケの活動と勉強をコツコツと行っております。
咲幸(サユキ)と申します🐨
前回のブログを読んでくださった方、ありがとうございました!
まだな方は今回のブログを読む前に、是非1つ前のブログを読んでから今回の話を読むことをオススメします!
皆さんのおかげで前回のブログの閲覧者数が100人を超えました!!
本当にありがとうございます😭
そして、個人的に感想やアドバイスをくれた方々、応援メッセージなど本当にありがとうございます。
これからも続けてまいりますので、よろしくお願いします。
今回の話も実話の話で、前回の続きになります。
少し痛々しいかもしれませんが
ご了承ください。
怪我を軽度の時に完治する大切さ。
周りのサポートの有り難さを皆さんなりに汲み取っていただけたら、幸いです。
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中学校3年生最後の登校日。
みんなは登校して早々、ブレザーの左胸にピンクの華を付けていた。
アルバムに寄せ書きし。これまでを振り返り涙しているクラスメイトもチラホラ。
音楽と校内放送で廊下に並び式に向かう。
無事に卒業式が終わり、クラスに戻り3年生が下校となります。
そこには先輩のボタンや名札を貰うために寒い中待っている後輩が沢山居ました。
サッカー部やバスケ部、バトミントン部の人も沢山ボタンなど持っていかれていました笑
私も嬉しいことに、ワイシャツのボタンまで取られて行きました笑。
もちろん。第2ボタンは女子バスケ部の可愛い後輩Kにあげました笑
その次の日から、手術の為に入院しました。
担当階の元気なナースさんと、リハビリの先生が病室まで挨拶しに来てくれました。
母は服や歯ブラシを届けてくれました。
初めての入院はとても怖かったです。
お化けとかも当時は怖かったです。笑
3日後には手術。そんな事を考えると眠れない日も続きました。
そして手術当日。
私の場合は全身麻酔で行う事になりました。
移動ベットで手術室に入ります。
ドラマで見るような場所で、麻酔科の先生が説明を始めます。
「佐藤さーん!麻酔科の○○です!今から腰に注射を打ちます。とても痛いんだ?でも、2秒後ぐらいには眠たくなって、起きたら病室にいるから安心してねー?😊」
いや、そんな楽しそうに淡々と話されたら…っと笑っていたのもつかの間。
左側を下にして横になり、少し体育座りをしたような体制になった…次の瞬間。
とても太い注射針で腰の脊髄に麻酔を打ち始めました。
(いっっった!!!!)っと感じたのと同時に冷たさも感じました。
体制は仰向けに戻り、瞼が重くなり、1…2…。
スっと深い眠りにつきました。
目を開けると…病室に寝ていて、酸素マスクが繋げられていました。
目を覚ますと直ぐにナースさんがきて、酸素マスクを外し沢山話しかけてくれたのを覚えてるのですが、麻酔が取れていないので何を言ってるか覚えていませんでした笑。
手術後の私の脚は両足、感覚がありませんでした。
下半身麻酔を継続していたそうです。
手術終わり男友達2人がお見舞いに来てくれました。食べ物を買ってきてくれ、夕方で面会時間は終了。
その日は足の激痛でご飯が喉を通らなく、お見舞いのプリンなど食べやすいものを食べました。
消灯時間になる前。
そこで私はナースさんに無理なお願いをしました。
「下半身の麻酔をとってください。」
手術後の痛みは成人男性でも悲鳴を上げるほどの痛みらしく、本当にいいの?っと何度も聞かれたのですが、私は自分の足が感覚がないことが気持ち悪く耐えられませんでした。
話をするとすぐに麻酔をとってくれました。
痛みは5分程ですぐにやってきました。
私は激痛に耐え、脂汗をかきながら
必死に痛みを堪えていました。
私がタオルを噛んで、痛みを耐えてるのを
見かねて、可愛がってくれていた
隣のベッドのおばあちゃんが深夜に
ナースコールをしてくれたこともありました。
その痛みに私は丸3日間寝ることが出来ませんでした。
妹のように接していた従姉妹のTはほぼ毎日お見舞いに来てくれていていました。
Tは私を心配してお見舞いに来てくれた友人と話したり、私が仮眠できるようすぐ側に居てくれていました。
色んな人がお見舞いに来てくれてたり、
家族や先生のサポートもあり手術後2週間でリハビリが始まりました。
ということで今回はここまでに。
次回より短めなのですが、長く読んで頂くため少し短くさせて頂きました!!
次回は手術後の経過・リハビリ・病院から学校の通学、そして選手へ復帰をお話したいと思います!
今回もお付き合い頂きありがとうございました☺️
また次回、読んでいただけると幸いです。
次のブログもよろしくお願いします🐨
❶人生を変えた最高で最悪な転機〜選手生命を失った日〜
初めまして!
札幌でバスケの活動をコツコツと勉強しながら行っています。
咲幸(サユキ)と申します🐨
これからバスケブログと言うスポーツのお話をねりながら実話を書いていきたいと思っております!
よろしくお願いします☺️
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私は高校1年生で6年間続けたバスケをやめた。
6年間…ずっと走り続けました。
誰よりもバスケが好きで、誰よりもチームの為に走ることが大好きでした。
辞めたこと。ある人から見れば「逃げ」。
また、ある人からすれば「守り」。なのかもしれない。
これは私が経験した実話です。
読んでくださっている方で怪我をした事ある方はどのくらい居るのでしょうか。
怪我をしたことがある人、ない人。
スポーツをしてる人、してない人。
色んな方がいるかと思います。
スポーツには、スランプ・怪我・挫折。
色んなものがついてきます。
読んでいる方で躓いたり、迷ったり、辞めたいと思ってる方がいましたら…
まだ諦めないで欲しいです。
大怪我をした人もいるでしょう。
意識が高いスランプに陥ってる人もいると思います。
このブログはそんな方の選択をじっくり考えれる「きっかけ」になれればと友人と話し書くことにしました。
筋トレ・フリータイムでも読んでいただけると幸いです。
この話を書くことになったきっかけは、恩師の一言からでした。
「君なら、きっとできるよ」。
私はもう選手には戻れません。
選手生命を失ったあの日。
今回お話するのは怪我した時。(当時中学3年生)
ブログ更新した際、話す時代が前後致します。ご了承ください。
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雪は少しずつ溶けていたものの、その日は寒い日でした。
中学校生活最後のイベント…クラス対抗球技大会!!
私はバスケ部に所属していて、「所属部活の球技に出てはいけない。」というルールが無かった為、躊躇することなくバスケを選び1試合目は大きな点差をつけて勝ち、本日2試合目の2コーター目の真っ最中だった。
相手の中にバスケ経験者が居なかったが、背が大きい人が居るため少し苦戦してたが点数は勝っていた。
同じクラスにバスケ部の6番(私のバスケ部の6番はガード。司令塔であり、ゲームキャプテン。)からパスを貰い、目の前にはディフェンスが居なかった為、レイアップシュートを狙っていた。
ドリブルをし1歩、また1歩。
徐々にゴールに近づく。
ゴールまで約4歩。いけるっ。そう私は確信していた。
そう思ってドリブルをしていた…次の瞬間。誰かと接触した。
この時はファールをもらえる。ラッキー!くらいにしか思っていませんでした。
私の視界は右に傾き始めた。…何か…変。
耳元で大きな音が鳴る。「ブチッン!!」
何が何だか分からなかったが目線が自然と右脚へ。
「右膝」は右側外を向き。「つま先」はそっぽを向くように真逆の左側へ。
痛いっ!っと痛みを感じたと同時に私は気絶した。
後で聞いた話なのですが、顧問の先生がいち早く怪我に気づき駆け寄ってきてくれたそうです。
私は目が覚めたと同時に激痛で叫びました。
右脚が熱をもち、心臓が右脚にあるかのように脈を打っていて、脈と同時に激痛が走ります。
素早く体育館から1階ホールに運ばれました。
周りにはクラスメイト数人が私を囲って見守ってくれてました。私の顧問の先生はみんなを体育館に戻るように優しく誘導して行きました。
それと入れ違いに女子バレーボール部顧問であり私の担任の先生が来ました。
先生は私の脚を見て、「切れてるかも。靭帯…」そう言って直ぐに私の母に電話して、病院に行くように伝えました。
母が車を出して、病院に着きすぐにMRI検査をしました。
MRIが1時間ほどかかり私はその間、ずっと「捻挫であって。お願いします。」そう願うことしか出来ませんでした。
検査が終わり、待合室で名前が呼ばれました。
母が車椅子を押し、一緒に診察室に入りました。
担当の先生はボーイッシュな女性の先生でした。
先生は嫌なほど分かりやすくレントゲンを指しながら私と母に細かく難しい言葉で説明しました。
「咲幸ちゃん。分かりやすく率直に言います。あなたの怪我は、前十字靭帯断裂・半月板損傷です。手術・リハビリの為、1〜2ヶ月の入院になります。手術をすればまたスポーツは出来ます。ですが、これまで通りに走れません。どれだけリハビリや筋肉を付けても、今までの5〜6割の力しか出ません。損傷が激しく、太ももから筋を取り切れた靭帯の所に移植します。膝の皿はボルトで固定をして経過を見ます。
卒業式の次の日から入院となります。
お母さん、入院の手続きは……………」。
車椅子と松葉杖を借り、車に乗せ母は車を走らせました。
「大怪我しちゃったもんだねー😅」っと母は明るく話しかけてくれました。
このまま早退してもいいんだよ?っと言われたのですが、給食が食べたかったし、何より最後の中学校行事を見たかったので学校に戻ることにしました。
学校に着き、インターホンで1人でクラスに戻れない事を伝えると、直ぐに担任の先生とクラスメイトが迎えてくれました。
3年生のクラスは2階。
学校にはエレベーターなどなかったので、痛みを我慢しながら階段を片脚で上り、2階から車椅子に乗り換えクラスに戻りました。
クラスのみんなは私が戻ると直ぐに集まり、大丈夫なのか?怪我の具合はどうなのか?っと質問責めにあいました笑。
同じクラスで、部活も同じの6番の子は泣いてました。
何故泣いているのかを聞くと、私が怪我したのを目の当たりにし、これからこなす試合が不安になっていた所、給食時間になって私が戻ってきたと思ったら車椅子になっていたことにビックリしたことで泣いていました。
この時は、もう一緒にバスケが出来なくなると彼女も私も思っていなかったと思います。
私はその時、不思議と泣きませんでした。大丈夫だよ!っと心配させたくなくて、ぐっと堪えていました。
みんなより少し低い車椅子は、とても食べにくい位置になっており、痛み止めを飲んでいても痛みが少しも良くなることなく、初めてその日給食を残しました。
給食の時間が終わり、車椅子の操作で汗ばんだ手を洗いに、友達に水飲み場まで押して行って貰いました。
そこには偶然私を担いでくれた顧問の先生がいました。
先生はビックリしたのもつかの間、私の脚と車椅子の姿を見てショックを受けてました。
先生は「痛いかい?怪我はどのくらい酷い?」
私は病院の先生の言ってたことを思い出し、先生に説明しました。
そこで、私も自分の口で説明することで自分の怪我の重大さに気づきました。
私は我慢していた涙が溢れました。
瞬きをする度に流れました。
悔しさ。虚しさ。そして何にも八つ当たりをすることも出来ない無力さ。
顧問の先生は優しく「我慢しなくていい。ゆっくり治そう。君ならできるよ。誰よりも努力してきたことを知ってるから。」
そう言って優しく肩をたたいてくれました。
この当時の女子バスケットボール部は上下関係が少し厳しかったのですが、こんな先輩を慕ってくれる、めんこい後輩が沢山居ました。
その中でもKと言う後輩は私を1番慕ってくれ、私も1番可愛がっていました。
もちろん、引退した先輩が車椅子姿になっていたらビックリするでしょう。笑
あっという間に後輩に囲まれ、「どうしたんですか?!なんで…大丈夫ですか?!」
笑いながら「大丈夫大丈夫!死ぬわけでないしさっ笑!」っと冗談を言ったりしてみんなを安心させようとしました。
いつも見る顔が一つだけありません。
周りを見渡すと、1番可愛がっていたKが泣いていました。
どうしたの?!っと聞くと…「咲幸先輩…もうバスケ出来ないんでしょうか…?」その言葉にドキッとしたのを覚えています。
昼休み終了のチャイムがなり、後輩はクラスに戻り、私は球技大会の続きを行う体育館に戻りました。
この1日が人生で1番時間が長く感じた日でした。
高校入学を控えてた私は中学3年生の夏から高校生に混じって練習をさせてもらっていました。
その日に高校のバスケ部の先生に連絡をすると、「とても残念。早く怪我を治して部活に顔を出して欲しい。」そう言われました。
バスケ部の男子からは「またバスケ出来るよな?お前なら大丈夫だ!」っと頼もしい言葉を投げてもらい、同期の女子バスケ部には「咲幸が1番走るのも好きだったのに…なんで。」っと自分の事のように悲しがってくれる仲間もいました。
私も人間です。
なので接触してきた人を初めは憎かったです。
どうして私なのか。
なんで私の右脚がそうならないといけないのか。ずっと…ずっと苦しみました。
でも、自分の事のように泣いて悲しがるチームメイトを見て私は思いました。
チームメイトの誰かが怪我しなくてよかった。
自分でよかったのかもな。
これからが期待の後輩がこんな辛い怪我をしなくて本当によかった。そう思えました。
今後のブログでもお話しますが、私は生涯スポーツを禁止され、ドクターストップを解除されないままになります。
1度は復帰するも、そこで決定的なドクターストップとなります。
今はジョギングや水泳は許可されました。
ですが、対人運動や膝に負荷がかかるスポーツは一切禁止。
バスケやバレー。野球にテニス。サッカーはもってのほかとなります。
こうして私は大好きな『バスケットボール』を人生から奪われました。
ですが…選手は無理でも他の形でバスケに携わる道を色んな人が、恩師が教えてくれました。
まだ私は諦めたくなかったんです。
怪我が無ければ高校バスケをして、大学でもバスケをし、バスケに携わる仕事に就くことを普通のように夢見てました。
当時中学生の私には怪我をしたことで普通に見てた「将来の夢」が取り上げられることがどれだけ残酷だったのか。
でも、諦めなかったから今の私がいます!!
走れないバスケコーチ。
かっこ悪いんですが、あらがって色んな方に支えてもらいここまで来ました。
読んでくださった皆さんは
これからだと思います。
22歳のガキが何を言うか。
本当にすみません。
でも、諦めなければ好きなことに食らいつくことが出来ることを、残酷な日を乗り越えれることを知って欲しいと思っています。
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
次のブログ更新は1ヶ月以内に更新します。
それまで、またしばらくお待ちください。
ここまでお付き合い頂きありがとうございました。
次のブログもよろしくお願いします🐨